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| 司馬遼太郎は、本当のエンターテインメントを書く人だと思う。下手な映画よりもよほどおもしろい。 |
| ここでは歴史上の人物について書く事が多いと思います。その人物観は、本、資料で読んだものです。 |
| それに基づいて、様々に考えた事も書いていきます。 |
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長曽我部盛親(画像は父、元親のもの)
(06年7月記す)
ダビンチコード等の当節のベストセラーを読んだ後に、また、どうしても司馬遼太郎が読みたくなる。何かないかと探すと、この「戦雲の夢」があった。また読み返す。
不運の武将、長曽我部盛親の生涯、大名から、一介の素浪人になり、大阪冬の陣、夏の陣で滅ぶ。全編に「詩」のような雰囲気が漂う。資料もあまりない武将だから、司馬遼太郎の創造が生き生きしている。
読後、才能があっても、報われない人生もある。しかし、自分の自己実現をし、いい人間関係に恵まれれば、それでいいのではないか。金銭は、それなりにあればいいのだ、という気持ちにさせられる。(06年7月記す)
「戦雲の夢」から抜粋、最後のほうの一場面です。この文書に、この小説のテーマが表現されていると思います。
「そちも、あのような者に仕えたがために難儀をみることじゃな」
「あのような者とは?」
「才あって骨細き者じゃ。いわば、鎌倉のむかし、九郎判官義経もそのような者であったろう。
義経は名将というが、いまの世なら足軽にもなれまい。いまの世の武将は、天然欲ふとく、時勢をみるに敏で、利のためなら糞土にまみれるとも平然たる男でなければ、名将といわれるほどの武士になれぬ。盛親は、義経に似ている。どちらも名門にうまれて、はじめから一軍の特になったが、その器でないためにやがては地位から落ちた。盛親は平凡な気質の好人物にすぎぬ。たたの家にうまれてさえおれば、儒者か坊主になって世を送ったであろう」
「しかしどこと無ういとおしいお方でござりまするな」
「いかにも」
◇人物プロフィール◇
織豊時代の大名。幼名千熊丸。通称右衛門太郎。土佐守。元親の四男。関ヶ原の戦では西軍に属し美濃南宮山に布陣したが戦わずして帰国。領国を没収された。以後伏見に潅居して大岩祐夢と号し,寺子屋の師匠などしていたという。豊臣秀頼の招きに応じ大坂の陣に参陣したが敗走,京の大路引回しのうえ六条河原で斬られた。
『世界大百科事典(平凡社)より抜粋』
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越後長岡藩家老・河井継之助
(06年7月記す)
「峠」、司馬遼太郎の代表作にもあげられる。
河井継之助(かわいつぐのすけ)、と言っても、この本が出るまでは、新潟県の人でも知っている人はいなかっただろう。
さらには、地元長岡では、北越戦争を引き起こした張本人として、墓は度々荒らされたという。
司馬遼太郎の描く、この人物像も、作品によって変化する。天才が引き起こす悲劇の描き方が、肯定的か、否定的かに分かれる。
自分も、3回以上は繰り返して読んだ。
勉強の仕方、人間関係、時代にどう取り組んでいったか。色々考えさせられる。
幕末、時代に多くの人が流される時代に、こういう日本人がいた。しかし、功績も多かったが、大きな悲劇も引き起こしてしまった。という事実は、本を読み返す度に、俺ならどうするだろうと考えずにはいられなくなる。
◇人物プロフィール◇
江戸末期の越後長岡藩士で,戊辰戦争のとき新政府軍に頑強に抵抗した。名は秋義,号は蒼竜窟,継之助は通称。藩の上士の家に生まれて20代で江戸に遊学し,斎藤拙堂や古賀謹堂に儒学を学んだ。またペリー来航後の30代には,西日本に足をのばして備中松山の山田方谷に師事し,さらに長崎にも遊んで見聞を広めた。判断力,行動力ともに独特の強烈さをもつ人格が形成される。
『世界大百科事典(平凡社)より抜粋』
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土佐藩、陸援隊、中岡慎太郎
(06年7月追記)
この人物は、坂本竜馬と共に、暗殺された。竜馬が駘蕩とした雰囲気でいるのに対して、常に真っ直ぐに志士活動をしていた。こんな風に穏やかに笑っている写真は、幕末の志士たちの写真の中でも珍しいと思う。
10年以上前に、土佐、高知大学の寮に友人5人と泊まらせてもらった。夜、寮長が2、3人の寮生を連れ、酒を持って現れた。なぜか、全員、赤褌姿で。いきなりゴッキ節という歌を歌い、踊り始めた。3秒イッキ!などと叫びながら、やたらと酒を飲み始める。俺達も酒を飲まされた。行事の事から、彼女の話、政治についてまで話が飛び、結局酔いつぶれて寝た。
後で聞いてみると、それは竜馬の時代以前から続く風習なのだという。とにかく、元気な連中だった。
竜馬がゆく、は司馬先生の代表作だ。
解説の中には、「この本に出会うか、出会わないかで、人生が大きくかわってしまう」とまで書いている人もいる。
自分も高校時代、古本屋で買って読んだ。
この本によって、人は貧乏だろうと、病気だろうと、「志(こころざし)」があれば、生きていける、そういう人間もいることを知った。
自分には、とうていたどり着けない境地だが、そういう人間がいる、という事に勇気づけられる。
◇人物プロフィール◇
幕末の尊攘派志士。1857年(安政4)より大庄屋見習として村政にかかわるが,間崎滄浪から文を,武市瑞山から剣を学んだことから,61年(文久1)土佐勤王党結成に参加し,瑞山の〈正系〉を継承すると評価される。勤王党弾圧後は脱藩して長州に走った。しかし長州尊攘派の敗北と再起を目のあたりにして単純な尊攘主義を克服し,富国強兵と武力討幕のための醍長同盟を構想して,坂本竜馬とともに奔走した。
『世界大百科事典(平凡社)より抜粋』
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幕臣 勝海舟 (06年7月追記)
やたらに毒のこもった批判をする。自慢話も止まらない。典型的な江戸っ子だ。
しかし、時代を見抜く力、洞察力は、幕末を代表する。
維新後も、明治政府のご意見番として、恐れられる存在だった。敵も多いが、味方も多い。
「江戸城明け渡し」の会談で有名な西郷隆盛と勝海舟。しかし、その人生は劇的に変化していった。維新後、片方は伯爵、片方は賊軍の将。
それは、維新前は逆だったことを考えると、人生の変転、流転を思わざるを得ない。
自分のやってきた、失敗、成功の小ささを思うが、この小さいところから、人はどこまでやれるのか。どう大きく成功し、大きく失敗してしまうのか。
「翔ぶが如く」には、その例が数多く展開する。
◇人物プロフィール◇
幕末・明治の政治家。下級幕臣勝小吉の長男で通称麟太郎,名は義邦,海舟は号。
幼少のころ将軍徳川家斉の孫初之丞の相手をつとめたが,その死によって微禄御家人の生活に戻り,島田虎之助について剣術をきわめ,ついで島田のすすめで蘭学により西洋兵学を身につけた。蘭学の師は永井青崖。本所に育ったが,蘭学修学の便のため赤坂に移り,1850年(嘉永3)赤坂田町に兵学塾を開いた。ペリー来航後しばしば上書してその識見を幕府有司に知られ,55年(安政2)初頭の海防掛視察団に加わって伊勢および大坂湾一帯の防備体制を調査,ついで同年から長崎ではじまる海軍伝習に幹部学生として派遣された。
63年将軍家茂の大坂湾視察を案内して神戸海軍操練所設立の許可をもらい,諸藩士や坂本竜馬ら脱藩浪士の教育にあたった。64年(元治1)正規の軍艦奉行に進み安房守を称したが,同年11月浪人庇護をとがめられて免職,翌年3月に神戸操練所も廃止となった。
68年、幕府でなくなった徳川の新体制のもとで海舟は海軍奉行並から陸軍総裁,さらに軍事取扱となって東征軍にたちむかい,江戸総攻撃予定日の前夜,西郷隆盛と会見し,醍摩藩や長州藩が存続するかぎり徳川も藩として生き残る権利があるとの主張を認めさせ,無血開城への道を開いた(江戸開城)。
『世界大百科事典(平凡社)より抜粋』
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